加納城~築城の歴史~

加納城大手門
加納城址北部入り口

文安2年(1445年)に美濃守護所・革手かわて城(川手城)の備えのため、美濃国守護土岐とき氏の家宰・斎藤利永としなが(三代将軍家光の乳母・春日局の高祖父)によって沓井城くついじょうとして、今の岐阜市南部に築城された。船田合戦では斎藤妙純みょうじゅんの居城となり、美濃国防御の要の城であった。しかし、享禄3年(1530年)、11代守護土岐頼芸よりのりが斎藤道三により追放。革手城が廃城になると、美濃の防御の要は稲葉山城(岐阜城)に移り、それとともに加納城も衰退。天文7年(1538年)にはすでに廃城となっている。

その後、再び加納の地が重要視されるのは関ヶ原合戦以降のことである。

関ヶ原合戦の後、岐阜城主織田秀信ひでのぶ(織田信忠の嫡男、織田信長の嫡孫、幼名:三法師さんぽうし)は西軍に与したため改易となった。

現在の加納城
加納城址 本丸跡

慶長6(1601)年、天下を握った徳川家康は、中仙道の要衝である西美濃に奥平おくだいら信昌のぶまさを十万石で封じた。

家康は岐阜城を廃城とし、その廃材などを使用して沓井城の旧蹟に加納城を築かせた。

17世紀ごろの加納城
入り口案内図(現地説明板)




水面に浮かぶ城

加納城は二重の堀をもつ、南北に細長い城(南北約600メートル、東西約300メートル)であり、城の大手門は北側にあり、中山道に面し、大手門前で屈曲する構成となっていた。内堀は本丸を取り囲む形で配置され、外堀は、荒田川(東側)、清水川(北側)、長刀堀なぎなたぼり(西側:現在の加納長刀堀)、加納中学校付近に南の外堀がり、まさに水に浮かぶ城であった。

城址北側 チャートの石垣
城址北側 チャートの石垣

本丸は方形を成し、そこから外枡形が突出している(凸型をした石垣構造)。これは初期徳川系城郭の特徴とされており、「加納城型」とも呼ばれている。主な曲輪くるわとして本丸とその西に二ノ丸、北に厩曲輪・三ノ丸、南に大藪曲輪がある。

本丸に天守台はあったが天守は建てられず、代わりに二ノ丸に御三階櫓が建てられていた。当初は予定されていたが、時代の流れが名古屋城に移り必要がなくなったため造られなかったという。この城の石垣は加工するにはあまり適さないチャートが使われている。

岐阜城址
石垣に登ると北側には稲葉山城(岐阜城)が見える。

平成16年、本丸堀の発掘調査で「堀障子ほりしょうじ」が発見された。「堀障子」とは、敵の侵入を防ぐため堀の底部に縦横に土塁を残して掘る築城方法である。障子のように堀底に土塁を残し、50cmほど浅く水をはることで、泳いでの侵入を阻止し、歩いては堀底の極端な高低差で敵の侵入を遅らせるという効果がある。

城下町は東に配置された武家地と北側にある中山道53番目の宿場である加納宿。

各地の城跡で発見される堀障子

堀障子は本文でも書いたが敵の侵入を防ぐための堀の造成方法である。

画像のように十字型、または波型のうねを残して掘を造成する。この上に畝が隠れる程度の浅さで水を張る。城攻めの敵は泳いで堀を渡ることも出来ず、かつ足元は畝状に起伏があるため、水の抵抗とあわせて格好の障害物となるのである。

山中城障子堀
山中城障子堀(wikipediaより)

この障子堀は小田原城をはじめ後北条氏の城の特徴とされていたが、近年の調査で大阪城など各地の城で同様の設備が新たに見つかり、現在では戦国期の一般的な築城方法であったと考えられるようになった。

いずれにせよ、外敵から城を守るための戦略的設備であり、加納城も籠城戦まで視野に入れて築城されたことが覗える。



御三階櫓

御三階櫓は、享保13年(1728年)に書かれた絵図によれば独立式層塔型三重四階である。二ノ丸の東北隅に建てられ、現存当時は「お三階」と呼ばれていた。

御三階櫓古図
御三階櫓の古図(wikipediaより)

慶長6年(1601年)廃城となった岐阜城山頂にあった天守を移築したものと伝えられ、絵図面からは、東西面と南北面とで柱間寸法に違いがあるなど改変の跡と見られる構造が覗える。

御三階櫓の石垣
岐阜気象台に残る御三階櫓の石垣

享保13年に落雷による大火で焼失し、現在は岐阜地方気象台がある。

歌川広重 木曽海道六十九次・加納
歌川広重 木曽海道六十九次・加納 遠景に御三階櫓が見える
(wikipediaより)

初代加納城主・奥平信昌

奥平信昌
奥平信昌像(久昌院蔵:wikipediaより)

弘治元年(1555年)生誕、初名を貞昌さだまさという。

三河国作手つくでの有力国人奥平貞能さだよしの長男。

奥平氏は祖父・貞勝さだかつの代までは今川氏に属していた。永禄3年5月19日(1560年6月12日)桶狭間おけはざまの戦い後に三河における今川氏の影響力が後退すると、徳川家康の傘下となり遠江とおとうみ掛川かけがわ城攻めに加わった。

元亀げんき年間(1570~1573年)には武田氏の三河への侵入を契機に武田氏に属した。

元亀4年(1573年、この年、三方原の合戦があり、この合戦の最中に信玄は病死したとされている)ごろ家康は奥三河における武田の勢力を牽制するため有力な武士団・奥平を味方に引き入れることを考え、奥平に使者を送った。奥平貞能の答は「御厚意に感謝します」という程度のものだった。そこで家康は信長に相談した。信長は「家康の長女・亀姫かめひめを貞能の長男・貞昌に与えるべし」との意見を伝えてきた。

家康は信長の意見を入れ、貞能に「1.亀姫との婚約のこと、2.領地加増のこと、3.貞能の娘を本多重純(本多広孝の次男)に入嫁させること」を提示した。

同年6月22日、貞能は家康に「1.信玄の死は確実なこと、2.貞能親子は徳川帰参の意向であること」を伝え、しばらくして再び徳川の家臣となった。貞能親子の徳川帰参を受け、天正元年(1573年)9月21日、武田勝頼は奥平が差し出していた人質3人を処刑した。

奥平氏の離反に激怒した武田勝頼は、天正3年(1575年)5月に1万5千を号する大軍を率いて長篠城へ押し寄せた。貞昌は長篠城に籠城し、酒井忠次率いる織田・徳川連合軍の分遣隊が包囲を破って救出に来るまで武田軍の攻勢を凌ぎきった(烈士 鳥居強右衛門すねえもんの逸話で有名)。その結果、同月21日の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍は武田軍を破り、勝利をおさめることができた。

長篠合戦屏風
長篠合戦屏風(一部 徳川美術館蔵:wikipediaより)

この時の戦いぶりを織田信長から賞賛され、信長の偏諱「信」を与えられて名を信昌と改めた。信長の直臣でもないのに偏諱を与えられた者は、信昌の他に長宗我部ちょうそかべ信親のぶちかや松平信康のぶやすなどがいるものの、これらはいずれも外交的儀礼の意味合いでの一字贈与であると考えられている。そのような意味合いからして、信長から偏諱を与えられた信昌の貢献度は非常に高かった、と考えられる。

家康もまた、名刀大般若長光を授けて信昌を賞賛した。家康はそれだけに留まらず、信昌の籠城を支えた奥平の重臣12名に対して一人一人に労いの言葉を掛けた上に、彼らの知行地に関する約束事など子々孫々に至るまでその待遇を保障するという特異な御墨付きまで与えた。

この戦いの後に、父・貞能から正式に家督を譲られた。

天正13年(1585年)、徳川氏の宿老石川数正が豊臣秀吉のもとへ出奔した。数正によって秀吉に自家の軍事機密が流出するのを防ぐため、家康は急遽三河以来の軍制を武田信玄の軍制に改めた。かつて武田家に臣従していた信昌は、この軍制改革に貢献したという。

盛徳寺
奥平信昌夫妻の墓所 盛徳寺 加納城の西側にある

天正18年(1590年)7月、関東へ国替えとなった家康と共に関東に移転した。同年8月23日、上野国甘楽郡宮崎3万石に入封する。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは本戦に参加(一方で家史・中津藩史では、秀忠軍に属していたと記載あり)。戦後は京都の治安維持のため、京都所司代を翌年まで務める。この時、京都潜伏中の安国寺恵瓊を捕縛した。恵瓊が所持していたという短刀・庖丁正宗は、信昌が家康に献じたものだが、改めて信昌に下されている。一方で太秦に潜伏していた宇喜多秀家には逃げられている。

慶長6年(1601年)3月には、関ヶ原の戦い後に関する一連の功として、上野国小幡3万石から美濃国加納10万石へ加増転封される。慶長7年(1602年)、加納で隠居し、三男・忠政に藩主の座を譲った。

盛徳寺
盛徳寺内奥平夫妻墓所 門をくぐって右側が信昌の墓

慶長19年(1614年)には、忠政と下野国宇都宮10万石の長男・家昌に先立たれるが高齢を案じられてか、息子たちに代わる大坂の役への参陣を免除された。そこで、唯一参戦した末男・松平忠明の下へ美濃加納の戦力だけは派兵している。翌年3月に死去。

墓所は盛徳寺せいとくじ(岐阜市加納奥平町)、京都久昌院きゅうしょういん(建仁寺塔頭たっちゅう・奥平家菩提寺)等。

家康の長女・亀姫

永禄3年6月4日(1560年6月27日)生誕、徳川家康の長女。母は築山御前つきやまごぜん瀬名せな)兄は松平信康、異母弟に二代将軍徳川秀忠がいる。

天正4年(1576年)、長篠の戦いをめぐる奥平信昌の戦功への家康からの褒美として三河の新城城主・奥平信昌へ嫁ぎ、正室となる。4人の男子(家昌・家治・忠政・忠明)と1女を儲ける。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの戦勝により、慶長6年(1601年)夫・信昌が美濃加納藩藩主に任じられて、三男・忠政共々、加納に移ったことから、加納御前・加納の方と呼ばれるようになった。(貞昌の10万石とともに、亀姫にも粧田として2千石が給せられる。)やがて忠政、宇都宮うつのみや藩の嫡男・家昌、信昌と夫子らの相次ぐ死去を受けて、剃髪して盛徳院せいとくいんと号し、幼くして藩主となった孫たちの後見役となった。

光国寺
光国寺 亀姫が粧田に自身の菩提寺として建てた寺

寛永2年(1625年)、加納において66歳で死去。戒名は盛徳院殿香林慈雲大姉。墓所は盛徳寺・光国寺こうこくじ(岐阜市加納西広江町)・大善寺(新城市西入船)等。


各所に残る亀姫の墓所

亀姫の墓は埋葬地である光国寺(自身の菩提のため慶長19年に創建)奥平の菩提寺である盛徳寺(夫・信昌の墓と並んでいる、こちらを埋葬地とする説あり)、の岐阜市の二箇所の他、夫信昌との最初の居城であった新城市大善寺(4男の松平忠明が慶長7年(1602)作手の亀山城に転封された折、母の供養のために建立したもの)、京都久昌院、高野山金剛峯寺奥の院がある。

光国寺亀姫墓所
光国寺敷地内の亀姫墓所


以前は違う場所にあった亀姫墓所

光国寺は亀姫の粧田であったことから広大な地所を現在でも有している。

このため1970年中頃までは現在の場所から数十メートル離れた住宅地の一角に墓所はあった。(このあたりの住宅地は現在でも光国寺の貸地であることが多い。)

現在は、光国寺内に安置され、立派な門扉が守られ中に入ることは出来ないが、当時は柵もなく10m四方程度の、50cmぐらいの高さの、石垣で囲った盛土の上に写真の五輪塔が立っているだけで、誰でも自由に近づくことができた。

このため、当時は子供達の格好の遊び場で、筆者もこの五輪塔に登って遊んだ記憶がある。


亀姫に関する逸話

気性の強い女性であったとされ、現在でも地元では、おてんば・わがままな女性を「カメヒメサマ」(愛知県新城市では「新城様」)という。生涯夫信昌に側室をもつことを許さなかったといわれる。また、その性格から様々な逸話を残している。

ここでは、史実に基づいた逸話のみ一部を紹介したい。

侍女十二人手打事件

加納藩田辺見聞録に、「慶長12年(1607年)加納様の侍女、十二人一時に咎めに逢い、元和4年(1618年)この地に設社(碑文より)」という記録が残されている。一度に十二人もの侍女を処刑したというものだ。ただ、記録にあるのはこの一文のみで、どのような罰であったのか詳細は全く記されていない。

乱心説も含め事件に関しては様々な憶測があるものの、1607年といえば大阪夏冬の陣の前。時代はまだまだ不安定な頃である。西の備えとして建設された加納城の性質から考えれば、城下でも激しい諜報合戦があったとしても不思議ではない。

碑文にある「この地」とは「光国寺の裏」であり、第二次大戦以前は「十二相社」という堂宇が立っていたとのこと。現在は供養塔が立っており、毎年供養が行われいる。

十二相社
供養日の十二相社


宇都宮城釣天井事件

亀姫を「宇都宮城釣天井事件」の黒幕とする説がある。

嫡男・家昌の忘れ形見で、わずか7歳で宇都宮藩主となった孫の奥平忠昌は、12歳の時に下総古河藩に転封となった。ところが、忠昌の替わりに宇都宮藩へ入封したのは本多ほんだ正純まさずみである。そして亀姫は正純を快く思っていなかった。その理由は、大久保おおくぼ忠隣ただちか失脚事件である。

信昌・亀姫夫妻の一人娘が、大久保忠隣の嫡子・大久保忠常ただつねに嫁していた為、大久保氏と奥平氏の関係は緊密であった。だが、娘婿・忠常が早世し、頼みとする忠隣は不可解な改易と、心を痛めていた亀姫は、正純とその父・本多正信が奸計で忠隣を陥れた、と見なした。そこで済めば、それまでの話だったところ、奥平氏にまで牙を剥いてくる正純には、我慢がならなかった。年少ゆえの移封であれば忠昌相続時の7歳の時点で行うべきであるところを、12歳まで成長した後の国替えだったからである。しかも、それまでの奥平氏が10万石でありながら、正純になった途端15万石というのも承服しかねた。

また、一説に寄れば、下総古河藩への国替えの引越しに纏わる、こんな逸話がある。本来、私物以外はそのまま新入封の藩のために残して立ち去るように法度で定められている所を、奥平氏では障子、襖どころか、畳までも撤去。それだけでは空き足らず邸内の竹木まで掘り起こし、一切合切を持ち去ってしまった、というもの。聞きつけた正純の家臣が慌てて駆けつけて国境で呼びとめ、その非を咎めるものだから渋々返してやった、というものだが、定かではない。

そして、弟・第2代将軍・徳川秀忠ひでただに、日光へ参拝するため宇都宮城へ宿泊する際、正純には湯殿ゆどのに釣天井を仕掛け将軍を暗殺するという計画がある、と洩らしたとされる。釣天井自体は事実無根であったが、正純は配流されることとなった。その後は、忠昌が再び宇都宮藩へ配されたというものである。(wikipediaより抜粋)

文章はwikipediaをベースに多少のアレンジを加えるとともに、一部新規に書き起こした。

画像はWikipediaより流用(出典を明記)。

それ以外は全てオリジナル撮影。

初版……平成二十三年六月二十日

二版……平成二十三年六月二十九日